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ジャーナリスト
東洋英和女学院大学・大学院非常勤講師
尾崎 雄
一つの問いかけに一般市民とホスピス医が自らの言葉で語り合った。2004年9月、郡山で開かれた第12回日本ホスピス在宅ケア研究会・全国大会の「哲学茶屋」である。「わたしの命は、私のものか」。この深い問いに老若男女が向き合った濃密な3時間。そこで表出された生と死の物語の断想を拾った。
30代男性の「私の命が、家のもの、国家のものとなってしまったら怖い」と主張するまっとうすぎる声は共感をよばず、中年女性の『わたしの命は、私のものか』という問いは胎児も発しうるのか?」という問い返しから沈黙がほぐれた。看護学生は「胎児だっておなかの中で『私の命は私のもの』って叫んでいる」としながらも、「『わたしの命は私のもの』とは傲慢な考え。例えば、『それは私の仕事よ』と主張したら、必ずその仕事を成し遂げなければなりません。どんなものでも『私のもの』と言ったら責任が生じる」と。がんを患った医師が「人生には私のものが私のものと主張できなくなる時がある」と指摘。別の医師は「命は与えられたものだ」とする教育の必要を説いた。
癌手術を受けた女性は「2度流産したが、それは自分の気づきが不足していたからという負い目を背負ってきた」と語り、「癌を患ってから自分の命の質が変わった。私の命をどうするかはわたしの責任。その手がかりは聖書」だという。「人間は土から生まれ土に返る。それが耐え難いから絶対者・神を求め宗教心が芽生える」とはもう一人の医師の持論である。
仕事上の失敗で引責自殺を図ったという中年会社員は「息子のため」、自分だけの命ではないと思い止まったと告白した。「強盗が息子にピストルを向けたら身代わりになる。状況変化によって“私の命”の扱いは一瞬に変わる」。父親に自殺された男子学生は語る。「その当時は毎日泣いたが、今はその体験を世間に発信し、プラスに転じていきたい。『死にたい』と『生きたい』とは紙一重だ」
ひとりの女性が長々と話す。「生まれてきた価値があるのかと自責の念にさいなまれ、友人が『生きるか死ぬかは風が吹くようなもの。彼は死に、君は生きている。それだけだ』と言ってくれて納得した。『やるべきことをやってないから死ねないのだ』とも言われ、交通事故に遭う子供の身代わりになって自分が死ねば自らの役目を果たせると考えた……。『命は私のものか』と問われる私って、いったい誰なんでしょう?」
癌患者だった医師がもう一度口を開いた。「人工呼吸器の装着を拒否したALS患者を一晩寄り添って看取ったことがあります。私は最後まで本人の意思を尊重したつもりですが、あれで本当に良かったのかどうか…」
どの物語もネヴァー・エンディング・ストーリー。問題は、それに耳を傾けてくれる人がいるか、それを受け止める場があるかどうかである。大阪大学の鷲田清一教授がパリの「哲学カフェ」に倣って始めたという、この「哲学茶屋」はNarrative Based Medicine に通じる興味深い試みである。
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